From KSRG ✰「神の言葉[聖書]は とこしえに残る」(8)

(※こちらの記事はyahweh-ksrg様が、2022-08-09に公開を予定されていた記事の内容をコピーしたものです。)

2022-08-09
《神の言葉[聖書]は とこしえに残る》(8)
[聖書を理解する上での補足情報]【 保存版・ヤハウェの御旨 】

 

⬜ 今回の内容では、父ヤハウェの御旨をお伝えします。

 

※ 今回お伝えするものが、ヤハウェのみ旨すべてと言うことではありませんが、重要と思えるものにしぼって、 聖句を紹介して行きたいと思います。( 挙げていく順番には特に深い意味はありません。)

 

聖句と、必要に応じて 注釈を加えていきたいと思いますが。

ヤハウェの御旨に関する重要な聖句ですので、聖句とその意味とをよく心に留めて頂ければと思います。

 

⇩ ⇩ ⇩ ⇩

🟠 ヘブル人への手紙 11章 6 節

「 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。

なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」

 

・•《 この聖句は、三位一体神、あるいはイエス様、聖霊様などではなく、あくまでも唯一の真の神ヤハウェに対する信仰心 、がいかに重要であるかを 教えている聖句です。

ここに書かれてあるように、まず、ヤハウェが 実在者であること、そしてご自身を求める者に報いて下さる、そのような神であることを信じなければならないと言うことです。

 

そして、何より信仰を抱く動機です。それはヤハウェに喜んで頂きたい、喜ばせたい。

あるいは、忠節心などが関係しています。

それが 神の御旨、御心の一つ です。

 

単に自分が救われたい為とか、怖いから。

また、いやいやだとしたらあえて近づくことも、仕える必要もないわけです、ヤハウェはそのようなことは望んでおられません。》•・

 

 

🟠ヨハネによる福音書3章16節

 

「 神は そのひとり子を賜わったほどに、この世を 愛して下さった。

それは 御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

・•《 この聖句は、み子 イエス・キリストが、人類の罪を贖うために、ご自身の完全な命をささげて下さったことへの感謝について、つまり イエス・キリストに対し感謝することを主(おも)に教えている聖句ではありません。

 

まず、ヤハウェが、その一人子を賜わったほどに、この世を愛して下さったということ。

これを無視しては、み子 イエス・キリストに対する信仰はあり得ません。そのことを教えている聖句です。

 

言うまでもなく、イエス・キリストに対する感謝、信仰 はもちろん大切です。

しかし、繰り返しますが、ヤハウェを抜きにして、み子に対する信仰はあり得ないということです。》•・

 

🟠 テモテへの第一の手紙 2 章 4・5 節

「 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。

神は 唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」

 

・•《 まず 5節にあるように、ヤハウェが唯一真の神であること。そして、ヤハウェ と 人間との 仲保者(仲介者) が イエス・キリストであることを教えている聖句です。

 

そして、4節を見ると、ヤハウェは すべての人が救われるために真理を ‘’知る‘’ だけではなく、

真理を悟るに至ることを 望んでおられるということです。

 

では、真理を悟るとは どういうことでしょうか。

是非、箴言 2章 1―9 節 を ご参照下さい。》•・

 

 

🟠 ペテロの第ニの手紙 3章 9・15節

 

「 ある人々がおそいと思っているように、主は 約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対して ながく忍耐しておられるのである。····

 

わたしたちの 主の寛容は救いのためであると思いなさい。····」

 

 

・•《 この聖句で言わんとしていることは、まず、ヤハウェは約束の実行を遅くされるということです。

 

もちろん それには、気付きのあった方を 一人でも多く集めたい ということも関係しておりますが、 むしろ重要な論点は、14万4千人として 高次元に召される者たちを 霊的に整えるために 忍耐して下さっていると言うことです。》•・( ※ この点に関しては、本日のバイブルメッセージ(8)No.4で詳しい解説をしています。)

 

🟠 ローマ人への手紙 10章13―15節

「 なぜなら、『 主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『 ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は 』と書いてあるとおりである。」

 

 

・•《 この聖句の趣旨は、ここに書かれてある通りです。

 

パウロは ヨエル書から引用して、

主のみ名(ヤハウェのみ名)を呼び求める者を一人でも多く 増し加えさせるために、誰かが 知らせる務めがある、という事を訴えかけています。

 

 

14節の後半を見ると、「 宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。」とあります。

 

そして現在、何かしらの仕方でメッセンジャーをされている方々は、15節にあるように、ヤハウェから遣わされていることを自覚しておられることでしょう。

 

‘’自分さえ救われたらいい‘’ ではなく、ヤハウェは 今、何を望んでおられるのか····。

 

先程のテモテの聖句にもありましたように、ヤハウェは一人でも 多くの人々を救いへと導きたいわけです。

 

このヤハウェのみ心を理解した方々は、個人的に聖書を研究することだけで満足するのではなく、一人でも多くの方々がヤハウェに引き寄せられ、ヤハウェに救って頂けるようにするために、自分にも何か出来ないかと模索し、

必然的にメッセンジャーをするよう動かされることでしょう。

 

でも、メッセンジャーというのは、強要されて行うものではあません。

そうしたいと思われた方々が、自発的に宣べ伝えたらいいわけなんです。

 

そしてこの機会は、そうしたいと望む者すべてに、与えられているということです。

 

何を宣べ伝えたら良いのでしょうか。

一言で言うと、ヤハウェのみ名を呼び求めるよう、人々を導くために自分に出きることを行なうということです。

 

 ーーーーーーーーーーーーー

※ 他の人がヤハウェのみ名を 呼び求めるよう、出来ることの例を、幾らか以下に挙げてみます。

    ⇩

ヤハウェ が、愛、知恵、力、公正 の神であることを伝えることができるでしょう。

ヤハウェの喜ばれる、新しい人格を身につけること(その重要性)を伝える。

③ 正しいプレイヤー、つまり祈りの仕方を教えること。

ヤハウェの、今後のご計画や目的を伝え。

人類には将来に輝かしい希望や報いがあることを知らせること。

⑤ そのための、救済策として、「 5つの事 」を、できるだけ具体的に伝えること。

⑥ その他、聖書の(正しい)教理面や、預言 もろもろ。

 

ここに幾つか例を挙げてみましたが、これらの中から、ご自身に出来ると思われるものから、行なうことも出来るでしょう。それぞれご自身の能力に応じて、祈りのうちに行なっていかれたらと思います。》•・

 

 

🟠 ヨハネの第一の手紙 2 章 15—17節

 

「 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。

すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである。

世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」

 

・•《 ここで、何を愛してはいけないと言っているのでしょうか、これはどのような意味でしょうか。

 

悪魔の世と悪魔が提供しているものに対して、過剰な愛着心を持ってはいけない、と言う意味です。

あくまでも、過剰な愛着心です。

 

17節に書かれてあるように、この世と この世の欲とは過ぎ去る

わけですが、それまでの間、この世(悪魔の支配する世)で 生活しなければなりませんし、お金もある程度は必要です。

 

それで、ここで あまり例をあげてしまうと、どうしてもそのことだけに限定されてしまうので、

 

一例だけあげてみますと、たとえば、今 我々は大きな苦難に向けて、5つの事を実践しているわけですが、

そのような中で、16節に書かれてあるように、

「 すべて世にあるもの····肉の欲、目の欲、持ち物の誇り」などと、

5つの事に直接関係のない事(または物)に対して、過剰なまでの愛着心を募らせるならばと言うことです。

 

具体的に言うと、日々の生活の中で、これこれの事が無いと生きていてもつまらない、など····。

 

そのような傾向にも注意が必要です。

 

また、ヤハウェから見て忌み嫌われるような事柄や物に対し、愛着心を抱いていたり、習慣になっていることに気付いたとします。

それでも、その欲をたち切る事をしないとすれば、15節後半に書かれてあるように、父ヤハウェの愛は、彼のうちにはないと言うことです。

 

16節の表現を借りるならば、そのような人は、父ヤハウェから出た者ではなく、悪魔の世から出たものとして、言い開きが求められる、つまり裁きを受けることになります。

○ ヘブル人への手紙 4:13をご参照下さい。

 

 

ですから、あくまでも 神ヤハウェのみ旨を行うことが、自分の生活の中で、より重要な事となっているか ということです。

 

ただ、これらの聖句は、極端に解釈すべきではありません。

バランスの取れた娯楽さえも否定するようなものではありません。》•・

 

🟠 マタイによる福音書 25章 34節

「 そのとき、王は 右にいる人々に言うであろう、『 わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めから あなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。···』··」

 

 

・•《 ここに書かれてあるように、王である 子羊 イエス・キリストは、羊として 集められた人々のことを 何と述べているでしょうか。

「 わたし(イエス)に祝福された人たちよ」ではなく「 わたしの父に祝福された人たちよ····」

 

と述べています。

 

エスに好まれたかったら、父ヤハウェに祝福していただけるように ···· と言うことです。

 

あとは、ご自身で祈りのうちに 黙想されてみて下さい。》•・

 

 

🟠 ローマ人への手紙 5 章 7―11節

 

「 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。

善人のためには、進んで死ぬ者も あるいはいるであろう。

しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。

わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。

もし、わたしたちが 敵であった時でさえ、み子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。

そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さった わたしたちの 主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」

 

 

・•《 8節を見ると、我々はまだ聖書を知らなかったときには、聖書で言う、自分が罪人であると言う 自覚は ありませんでした。

 

しかし、聖書を知ることによって、

今から 約2000年前に、イエス・キリストが人類の罪を贖うために死んで下さったという事実を知るようになりました。

 

そのイエス・キリストに対して、信仰を持ち愛を抱いている人は世界中に大勢いると思います。

 

しかし そのような功績は ‘’イエス様‘’ だけに向けられるべきでしょうか。

繰り返しますが、8節を見てみますと、こうあります。

 

「 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神(ヤハウェ)は わたしたちに対する愛を示されたのである。」

 

まず、この的を外してはいけないと言うことです。

 

9節でも、「 わたしたちは、キリストの血によって 今は義とされているのだから、なおさら、彼によって 神の怒りから救われるであろう」

と このように 書かれてあるんです。

 

10・11節は、もう、説明するまでもありませんね。

イエス・キリストを仲保者(仲介者)として、ヤハウェ と 我々 人間が、和解できるように

 

ヤハウェ ご自身の方から道を備えて下さったということです。

 

11節を見ると、「(その) 和解を得させて下さった わたしたちの主イエス・キリストによって、神(ヤハウェ)を喜ぶのである。」

 

とも 書かれてあります。

 

共同訳では、「 ····わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今や このキリストを通して和解させていただいたからです。 」

 

と 訳されています。   

 

口語訳の ‘’ 神を喜ぶ ‘’ と言う 表現では、あまりピンと来ない方もおられるかも知れません。

 

それで、共同訳にある ‘’イエス・キリストによって神を誇りとする‘’

とか、また、色々な訳を参照して見られるのも、意味を掴む助けになるかも知れませんね。

 

 

アダムの犯した罪のゆえに、その子孫である 人類すべてが、ヤハウェとの関係を損ない、長い歴史を通して 死と苦しみを経験してきたわけですが、

ヤハウェは人間をそのような絶望的な状況から解放して下さる為に、最愛のひとり子を与えて下さったわけです。

 

この取り決めには、人類に対するヤハウェの深い愛、そして知恵 など、様々な特質が関係しています。 

 

それらを深く黙想した

結論が、ローマ 5:11 の

‘’ わたしたちは 神ヤハウェを誇りとしています ‘’

 

と言うことなんです。

 

ある方々は、特に キリスト教関係者は、この聖句を見たときに、どうしても 子である神、イエス・キリストに注目しがちですが、イエス・キリストの精神態度は、次の聖句から全くぶれていません。

あくまでも、ヤハウェ に、と言うことです。

 

フィリピの信徒への手紙 2章6節

「 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しょうとは思わず ····」

 

繰り返しになりますが、和解の道を備えて下さったのは、あくまでもヤハウェ なんです。

 

私たちは、愛の神、ヤハウェ への愛をそして愛着心を日ごとに育んで行かなければならないでしょう。

そうするなら ローマ 5:11 で言わんとしている、真意を掴むことができるでしょう。

エスもそのことを望んでおられます。

 

ちなみに、イスラエルで使われている、ある聖書の ローマ 5:11 の 一部を、日本語に直訳すると、こうです。

 

「····私たちは、イエス・キリストを通して、神ヤハウェとの関係を喜ぶことができるのです。

これこそが、私たちの誇りです、····」 》•・

 

 

🟠 テサロニケ人への第一の手紙

5 章 16 ― 24節

 

「 いつも喜んでいなさい。

絶えず 祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい

これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

御霊を消してはいけない。

預言を軽んじてはならない。

すべてのものものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。

また、あなたがたの霊と心と からだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。

あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。」

 

 

・•《 ヤハウェは、皆様が いつも希望に満ち溢れて、内面でも 外面においても、喜んでいることを望んでおられます。

 

そして、プレイヤーによって、常に ご自身に話しかけることも望んでおられます。

 

この悪魔の世で、どれだけ酷い 仕打ちを受けたとしても、私たちは、ヤハウェが日々 命を保ち続けることが出来るように してくれていることを知っています。

 

感謝すべき理由は、少し黙想してみるだけでも たくさん見い出すことが出来るはずです。

 

それで、何をするにしても ヤハウェ への感謝を忘れないように、と言うことです。

 

また、ヤハウェは私たちに 聖霊を与えてくださり、

強力な霊のパワーも与えて下さっています。

 

ですから、あきらめて 自分から離れてしまわない限り、ヤハウェ の方から 皆様を見離すと言うことはありません。

イザヤ書 41:10・13をご参照ください。)

 

そして テサロニケ(一)5:20 に 、「 預言を軽んじてはならない 」 と書かれてあるように、メッセンジャーとしての務めがどれほど価値のある特権かを、認識しておられるでしょうか、と言うことです。

 

また、ヤハウェから見て、喜ばれることを行ない、忌み嫌われるような悪から離れると言うことです。

 

そして、この 23節はプレイヤーです。

 

『 どうか、自分の霊と心とを完全に守って下さり、イエス・キリストの来臨の時に、何も責められるところのない者として下さい。』

 

このようなプレイヤーも行なうことができます。》•・

 

 

🟠 エペソ人への手紙 4 章 29節 ―5章 1節

 

「 悪い言葉を いっさい、あなたがたの 口から出してはいけない。

必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。

神の 聖霊を悲しませては いけない。

あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。

すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。

互いに情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互いに ゆるし合いなさい。

こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。」

 

 

・•《 ここの範囲は、よく黙想されるなら、ヤハウェのみ旨をくみ取ることが出来ると思いますが 。     

 

 

これらのことを読み取り、実践して行くにあたり、以下は、知っておくと役立つ聖句です。 

    

     ⇩

 

◉ コリント(一)10章 24節

 

「 だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」 

 

 

この大原則が、しっかりと身についているならば、先ほどの、エペソ 4 :29 〜 5:1 の言葉  のみならず、他の聖書の教え、戒めも実践出来るようになると言っても 過言ではありません。

 

 

ただ、このコリント(一)10章24節の聖句は、 極端に捉えて(自分の益を求めることはふさわしくないのか?)と考えてしまう方も中には おられます。

 

 

もちろん そう言うことではあり

ません。

( ローマ 14:8 をご参照下さい。)

 

それで、そのような方にあっては、まず、

ピリピ人への手紙 2章4節の聖句

こちらから先に考慮なさって みて下さい。

     ⇩

 

「 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」

 

 

一般的に 人は、自然と自分のこと、まず 自分の益(利益)を考えて行動するものです。

 

 

ただ、ピリピの聖句では

「 あなたがたは、···他人のことも考えなさい。」

 

と勧めています。

 

ですから、まず、ピリピの聖句を当てはめるよう意識し、

 

 

それで、次の段階として、コリント(一)10:24

 

 

まず他の人の益を優先させる、ということです。 》•・

 

 

🟠 コロサイ人への手紙 3 章 12―15節

 

「 だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。

互いに忍びあい、もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。

主も あなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。

愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。

あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。

いつも感謝していなさい。」

 

・•《 この聖句については、解説はいたしませんので。個人的に黙想なさって下さればと思います。》•・

 

 

🟠 コリント人への第一の手紙 13章 3― 8 節

 

「 たといまた、わたしが 自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを 焼かれるために

渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は 高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。

不義を喜ばないで 真理を喜ぶ。

そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。」

 

 

・•《 この聖句は 過去にも解説したことがあります。是非 個人的に黙想されることを、お勧めいたします。》•・

 

 

🟠 ヨハネによる福音書 17章 3・6・26 節

 

3.「 永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされた イエス・キリストとを知ることであります。」

 

6.「 わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました。

彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。

そして、彼らはあなたの言葉を守りました。」

 

26.「 そしてわたしは彼らに御名を知らせました。

また これからも知らせましょう。

それは、あなたがわたしを愛して下さった その愛が彼のうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります。」

 

 

・•《 まず 3節で、永遠の命とは、唯一のまことの神でいますあなた(ヤハウェ)と、ヤハウェがつかわされたイエス・キリストとを知ると言うことですが、

 

これは、言うまでもないことですが、ヤハウェイエス・キリストを知ったら、それでいいと言う 意味ではありません。

 

ここで ‘’ 知る ‘’ と訳されているギリシャ語(ギノースコー)は正確な知識を取り入れ続ける、そして 実践する、と言う字義的な意味があります。

    

簡潔に言うならば、特質面で ヤハウェイエス・キリストのようになるよう 努力するということです。

 

コロサイの信徒への手紙 3章 9節後半からの部分に記されているように、古い人格をその行ないと共に脱ぎ捨て、ヤハウェに倣う、新しい人格を身につけ、また真の知識においても、日々 新たにされて行くということです。

 

霊的に成長すると言う 努力を怠っていないでしょうか。

 

昨日より今日、今日より明日。

 

聖書には、日々 新たにされていくと書かれてあるんです。

 

‘’自分は大丈夫 ‘’ と思っていたとしたら、それは自分を欺いていることになるでしょう。

 

ギリシャ語の ‘’ ギノースコー ‘’ と言う語は 正確な知識を取り入れ続けると言う点で ‘’ 最後まで ‘’という 意味合いも含んでいます。

 

もちろん、これらの事柄も 強要されて行なうものではなく、あくまでも、ヤハウェを喜ばせたいと言う 動機から そうしたいと思われる方が、努力する事柄です。

 

6 節では、ヤハウェが世から選んでイエスに賜わった人々に御父、ヤハウェのみ名を表した、つまり明らかにしたと言うことです。

 

それで、26節を見ると、そのことを簡潔に、

わたしは、彼ら、つまり すべての選別者たちにみ名を知らせました、また、これからも知らせましょう、と、イエス・キリストが述べているんです。

 

多くのキリスト教の指導者様はこのことを行なっておられるでしょうか。

 

 

そのようなことは さて置いて。

 

 

実は、御父の名を 新しい世で生活する人々すべてに伝えていく、そして、御父について教えていくことは、今後も 未来永劫つまり 永遠に続いて行くことなんです。

 

 

その点で、興味深いこととして、出エジプト記 9章 16節にはこのように書かれてあります。

 

出エジプト記 9:16

 

「 しかし、わたしが あなた(ファラオ)をながらえさせたのは、あなたにわたしの 力 を見させるため、そして、わたしの 名が 全地に宣べ伝えられるためにほかならない。」

 

実は、御父 ヤハウェのみ名が 宣べ伝えられていくことは、

この時から変わっていない、

また 今後も永遠に続いていく

ヤハウェのみ旨と言うことです。 》•・

 

 

🟠 イザヤ書 12章 4 節

 

「 その日、あなたがたは言う、 『 主に感謝せよ。

その み名を呼べ。

その みわざをもろもろの民の中につたえよ。

そのみ名のあがむべきことを語りつげよ。····』」

 

・•《 ここで 伝えたいことの、 一つは、まず、主である ヤハウェに感謝すべきことを 一人でも多くの人に語り告げよ、と言うことです。

 

そして、その み名、ヤハウェのみ名を呼び求めることを 一人でも多くの人に語り告げよ、と言うこと。

 

そして、ヤハウェのみわざ。

このみわざの中には、三次元 物質宇宙 全てを、愛をもって創造されたことも含め、地上においての唯一の 知的生命体である人間に、愛ある報いや、希望を与えて下さっている、そのご計画に感謝し、一人でも、多くの人に語り告げよと、言うことです。

そして 最後にヤハウェのみ名を高めるように(ヤハウェのみ名を高めるべき理由は無限に存在しています。)そのことを一人でも多くの人に語り告げよ、と言うことです。》•・

 

🟠 使徒行伝 15章 14―18節

 

「 神が 初めに異邦人たちを顧みて、その中から御名を負う民を選び出された次第は、シメオンがすでに説明した。

預言者たちの言葉も、それと 一致している。

すなわち、こう書いてある、

『 その後、わたしは帰ってきて、倒れたダビデの幕屋を建てかえ、 くずれた箇所を修理し、

それを立て直そう。

残っている人々も、 わたしの名を唱えている すべての異邦人も、主を尋ね求めるようになるためである。

世の初めから これらの事を知らせておられる 主が、こう仰せになった 』」

 

・•《 この聖句の解説はありません。》•・

 

 

🟠 ピリピ人への手紙 1章 29節

 

「 あなたがたは キリストのために、ただ 彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむこと をも賜わっている。」

 

 

・•《 ここは、書かれてあるように、私たちは、イエス・キリストに信仰を置く特権だけではなく、イエスのために、苦しむ特権も与えられていると言う事実を教えている聖句です。

そして、これは 主に14万4千人に対して 述べている言葉です。つまり、その他の選別者には、そこまで求められているわけではないと言う事です。

           

○併せてご参照下さい。

    ⇩

ペテロ(一) 2:21、マタイ 16:24—28、コリ(ニ) 5:14・15、

 

そして、

○ローマ 8:17・18

「 もし子であれば、相続人でもある。

神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために ‘’ 苦難をも共にしている以上 ‘’ 、キリストと共同の相続人なのである。

わたしは思う。

今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うにたりない。 」

 

これらの聖句は、

今 現在、そして これから 経験するかもしれない 苦しみ、困難の意味を悟る助けになり、

 

その意味が分かれば ···· と言うことです。····なんとしても耐え抜く 力 になることでしょう。

 

 

ヨハネの黙示録 14章 4節 後半

     

     ⇩

 

「 ····そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。」

 

 

と言う、この聖句も同じことを意味しています。

 

・・・今回は、神 ヤハウェのみ旨に関する聖句を紹介してきましたが。

これらの聖句の言葉が、皆様の励みになれば幸いです。

 

創世記に “蛇”は登場していなかった!

   

 先回は、創世記2,3章の 「善悪の知識の知識の木を食べる」と言う表現の意味について書きましたが、これは文字通りの意味ではなく、 「ヤハウェが設けた法律(神の義の基準)を無視する」という事を、象徴的に表していると言う事でした。

それで今回は、そのヤハウェが設けた法律を無視するよう、エバを誘惑した悪魔サタンルシファーの事が、なぜ創世記3章で 「蛇」 と書かれてあるのか?という事について簡単にまとめてみました。 

悪魔は”蛇”を使って騙したのではない!

創世記3章4,5節
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にもわたしたので、彼も食べた。
(新共同訳)

創世記3章13節後半
女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」(新共同訳)

 創世記3章を見ると、このように“蛇” がエバに話しかけた事が書かれてあります。

この "蛇" と言うのは悪魔サタンルシファーの事ですが、これはルシファーが 蛇を使ったり、蛇に憑依してエバに話し掛けたと言う事ではありません。

当たり前ですが、爬虫類の蛇が人間のように喋る事は出来ませんよね(>_<)

なぜ”蛇”と書かれてあるのか?

 実は、この創世記3章で  "蛇"と訳されている部分ですが、原語の古代ヘブライ語では ナハシュ と言う単語が使われており、この単語にはもともと 光の使い(輝く光を放つ聖なる者) と言う意味がありました。

つまり、ここで悪魔サタンルシファーは、蛇を使ってエバに話しかけた訳ではなく、正しくは ナハシュ(光の使い) を名乗り、高次元からの使いを装って、肉体をつけてエバの前に現れたという事です。

 では、原語ではナハシュ(光の使い) と書かれていたのが、なぜ蛇になったのか?という事ですが、

簡単に言うと、このナハシュという単語が、元々の"光の使い"という意味に加え、途中から “蛇”と言う意味でも用いられるようになった為、本来は "光の使い" と訳されるべきこの語が、翻訳の過程で “蛇” と訳されてしまったからです。 

"ナハシュ(光の使い)"が翻訳の過程で”蛇”になった経緯

 そのようにナハシュ(光の使い)が 、翻訳の過程で 蛇 に変わってしまった経緯について、大まかに説明します。

 まず、この創世記(原本)をモーセが古代ヘブライ語で筆記したのが、紀元前1514年~1513年頃の事です。

そこから千年近くが経過した紀元前586年のバビロン捕囚の頃、ユダヤ人のあいだでナハシュと言う単語が、 “蛇” と言う意味でも使われるようになります。(時期については諸説あり、断定は出来ませんが、バビロン捕囚の頃という説が一番有力との事。)

要するに、古代ヘブライ語のナハシュと言う単語は、歴史的に意味が分化し、“光の使い”と “蛇” と言うこの二つの意味で使われるようになったという事です。*1

 それでこのバビロン捕囚の後ぐらいから、写字生と呼ばれる人達によって、モーセ五書*2の原本をもとに、多くの写本が書かれるようになりますが、

前述したように、ナハシュと言う単語が  “蛇” という意味でも使われるようになっていった為、一部の写字生たちは、この創世記に出てくるナハシュと言う単語が 、 “蛇”  の事を指していると誤った解釈をし、ナハシュが “蛇” であることを匂わせるような記述を、個人的な考えで写本に書き加えてしまったのです。

バビロン捕囚時のバビロン(新バビロニア帝国)では、種々の神々が崇拝されており、 その中の一つとして蛇崇拝も普通に行われていましたので、恐らく、そういった影響も少なからず受けていた一部の写字生たちが、この部分を “蛇” であると誤って解釈したのではないかと推察されます。

写本と言うのはどんどん書き写されていきますので、その写本から書写された写本にも、このナハシュは蛇であると思わせるような記述がさらに書き足され……といった具合で、徐々に写本が改ざんされていきました。

もちろん、全ての写本がそのように改ざんされていった訳では無く、ほとんどは、原本からきちんと書き写されていった正当な写本でした。

ただ創世記の写本の一部には、  “蛇” に関連する記述が書き足され、原本からブレていった写本もあったと言う事です。

(これまでに発見されている創世記の写本はこの二種類で、大体バビロン捕囚の頃から一世紀にかけて書かれたものです。)

創世記の古代ヘブライ語写本
原本から正しく書き写された正当な写本
ナハシュが蛇であることを匂わせるブレた写本 

 それから西暦400年前後になり、ローマカトリック教会が、聖書を一般人に読ませまいとして、聖書を古代ヘブライ語写本から、ラテン語ウルガータ訳に翻訳します。

その際、翻訳者であったヒエロニムスは、正当な写本のほうではなく、"蛇"を匂わせる記述が書き加えられた、ブレた写本のほうを参考にして翻訳をした為、恐らく、このナハシュと言う単語が、"光の使い”の事ではなく、ハナから “蛇”  の事であると思い込み、ラテン語で"蛇" を意味する単語に翻訳したと考えられます。

つまり、原語の古代ヘブライ語写本からラテン語ウルガータ訳に翻訳されたこの時に、ナハシュが完全に"蛇" になってしまったと言う事です。

さらにこの時にも、 “蛇” を匂わせる意訳が書き加えられました。

従ってそれ以降、日本語訳の聖書を含め、ラテン語ウルガータ訳経由で翻訳された聖書では、原語で"ナハシュ"と書かれていた部分が、全て "蛇" と訳されるようになったという事です。

 このような経緯があり、創世記3章にはそもそも最初から蛇など登場していないにも関わらず、 “蛇”  がエバの前に現れて喋ったと言うお話になってしまった訳です。

”ナハシュ”を”蛇”にしたのは悪魔サタンルシファー

 もちろん、そのように歴史を通じて ”ナハシュ= 蛇 ”となるようにヒエロニムスの時代まで導いていった張本人は、悪魔サタンルシファーです。

ルシファーは、創世記3章14節後半でヤハウェの言われた「お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。」と言う言葉を聞いて、まるで蛇のようだと思い、光の使い(ナハシュ)を蛇にしようと企てました。

創世記3章14節
主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。(新共同訳)

 ちなみに、この3章14節中ほどの「あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で」という部分が、正当な古代ヘブライ語写本にはない、後から書き加えられた "蛇である事を匂わせる記述" の一つです。

また、3章1節の「主なる神が造られた野の生き物のうちで、もっとも賢いのは蛇であった。」と言う記述も同様に、後から書き加えられた部分になります。

この二つの聖句で “蛇” と訳されている部分を、“光の使い” と正しく変換すると、文脈に整合性が取れないのはその為です。

 

 古代ヘブライ語の写本は、これまでに、創世記だけでも何万点と発見されていますが、その中には、先ほど述べたように、正当な写本と、ナハシュが蛇である事を匂わす記述が書き加わり、ブレてしまった写本のこの二種類があります。

そしてヒエロニムスが参考にしたと思われるブレた写本は、その何万点という写本のうちのわずか数百点であり、その他の数万点は正当な写本でした。

これまでに発見された創世記の古代ヘブライ語写本の数
①正当な写本…数万点
②ブレた写本…数百点

 しかし、この数万点のほうが正当な写本であるということは、ヒエロニムスがラテン語に翻訳した当時には、まだ分かっていなかったのです。

ですからヒエロニムスは、圧倒的に少数だった”蛇”を匂わす数百点の写本の方を、「希少で価値がある!こちらが正しい!」…と、考えたかどうかは定かではありませんが、結果的に間違った方を物差しにして翻訳してしまった、と言うことですね(>_<)

 この二種類の写本はどちらが正しいのか?と言う事は、長い間一つの論点となっていましたが、1947年(実際の発見はこれより前)に「死海写本」が発見された事で、 “蛇” を匂わせた写本のほうが間違いだったと言う事が明らかになり、この論争に終止符が打たれます。

ヒエロニムスが参考にした写本の方が間違いであったと言うのは、今では常識となっていますが、ただ、この創世記のナハシュに関しては、残念なことに完全に悪魔にやられてしまった(蛇にされてしまった)と言うことです…。

正しく翻訳された聖書もある!

 ちなみに、過去にいた何名かの翻訳者たちの中には、ラテン語ウルガータ訳経由ではなく、正当な写本から翻訳している人たちもいました。

その中で有名なのが、ウィリアム・ティンダルです。

ウィリアム・ティンダルは、創世記の"ナハシュ”の箇所を"蛇”と訳さずに、そのまま"ナハシュ”と音訳しています。(本物のウィリアム・ティンダル訳聖書に限る)

 また、他にも正当な写本から翻訳されている聖書はあるので、全ての聖書がラテン語ウルガータ訳経由と言うわけではありませんが、大半の聖書はラテン語ウルガータ訳経由であり、どの言語でも “蛇” と訳されているとの事です。

 そして、正当な写本のほうを物差しにして書かれ、"ナハシュ”の部分が正しく"光の使い”と訳されている聖書はあるにはありますが、*3

そもそも、「アダムとエバは、”蛇” に騙されてりんごを食べた。」と言う聖書物語が一般的になっているので、"光の使い”と書かれてあっても、イコール蛇のことであると認識されてしまっているのが現状のようです。

”ナハシュ”が”蛇”になるよう導いた悪魔の意図とは?

 では先ほど、”ナハシュ=蛇 ” になるように導いたのは悪魔サタンルシファーであると述べましたが、その様に導いたルシファーの意図は何だったのでしょうか?

実は、これには悪魔サタンルシファーの、ヤハウェに対する挑戦の意図があり、その策略によってルシファーは現在でも、世界中の多くの人を惑わすことに成功しています。

その事についてはまた次回以降に、書けたら書きたいと思います。

 

*このブログは、KSRG様からの情報(過去動画やブログなど)を元に、個人的にまとめさせて頂いているものです。
間違った情報もあるかもしれませんので、大きな苦難に関する最新情報や、最新の聖書の正しい知識は、KSRG様のブログyahweh-ksrg’s blog や、YouTubeチャンネルFrom KSRGをご覧頂けたらと思います。

*1:それまで古代ヘブライ語に蛇を指す言葉が無かったと言う訳ではありません。一口に蛇と言っても沢山の種類がおり、タンニン(タンニーン)、ツェファ、ツィフォーンというこの3つの語で呼ばれていました。そこにナハシュという語も加わったという事です。

*2:モーセ五書旧約聖書の最初の5つの書。創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記

*3:英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語の聖書の中に、”光の使い”と訳されている聖書がある。

“地獄”は存在するのか?

 今回は、yahweh-ksrg様のブログの新シリーズ、<聖書の疑問に対する答え>の ①「地獄は存在しますか?」と言う記事のご紹介です。 

 多くの聖書翻訳で、聖書のある原語が“地獄”と翻訳されているため、キリスト教の中でも、天国と地獄は存在しており、クリスチャンおよびキリスト者以外の者たちは、全員地獄に落とされると、そのように教えているところがありますが、では実際に“地獄”は存在するのでしょうか? 

 新シリーズ〈 聖書の疑問に対する答え 〉 ❶「 地獄は存在しますか?」

yahweh-ksrg.hatenablog.jp

こちらを読まれると、”責め苦の意味を持つ地獄”と呼ばれる場所は存在しない事、そして死後の世界もない、という事がハッキリと分かると思います。


 でも死後の世界がないなら、いわゆる幽霊とは一体何なのか?また、心霊現象はなぜ生じるのか?という点について、疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。

その事については、KSRG様のYouTube過去動画【人間はどのように存在?死ぬとどうなる?死後の世界?幽霊?悪魔?など】「大きな苦難までにこれらの知識に通じていないと?」(1)で解説されていますので、ご視聴がまだの方は、よろしければこちらもご覧になられてみて下さい。

 今後訪れる大きな苦難を乗り越えるために必要なのは、高次元からの唯一の救済策である5つの事を実践することです。

宗教団体に入信したり、教会に通ったり、寄付やお布施をする必要はありません。

気づきのあられた方は、御自身の出来る範囲で5つの事を実践して頂けたらと思います。

一人でも多くの方に気づきがあられることを、心から願っております。

“善悪の知識の木の実を食べた” とは?

 今回は、創世記に出てくる 「善悪の知識の木」とは何か?
また、アダムとエバが「善悪の知識の木の実を食べた」 と言うのはどういう意味か?
と言う事について、簡単にまとめてみました。

 聖書は象徴的な表現が使われている箇所があり、書いてある聖句を文字通りに解釈してしまうと、おとぎ話になってしまう事があります。

特に創世記の ”アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べた” と言う話は有名だと思いますが、実際にリンゴか何かを食べたと言うイメージをお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。

私は文字通り果物🍎を食べたという意味だとずっと思っていました(>_<)

善悪の知識の木とは?木の実を食べたとは?


創世記2章16,17節
16主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
17ただし、善悪の知識の木からは、消して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(新共同訳)

創世記3章6節後半
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。(新共同訳)

 結論から言うと、この創世記2章~3章に出てくる ”善悪の知識の木の実を食べる” と言う表現は象徴的な表現ですので、実際にヤハウェが植物の木を生やされ、その木の実をアダムとエバが取って食べたという意味ではありません。

「善悪の知識の木」は、唯一真の神ヤハウェが設けた法律(神の義の基準)、そして「善悪の知識の木の果実を食べた」と言うのは、そのヤハウェが設けた法律を無視するという行為を象徴的に表しています。

善悪の知識の木ヤハウェが設けた法律(神の義の基準)
善悪の知識の木の実を食べたヤハウェが設けた法律を無視した

 ヤハウェは人間を、自由意思・自由選択の能力を付与した生き物として創造されました。(動物には本能が与えられているだけでこの能力はありません。)

でも、もしすべてが自由で、各々何でも好き放題に出来たとしたら、例え完全な人間であったとしても、世の中が無秩序になってしまいますよね。

秩序を乱す人間が一人でも出てきたらアウトですので、ヤハウェは、そうならないように、皆が平和で仲良く暮らせる様にする為に、事前に法律(象徴的な善悪の知識の木)を設けてくれていたと言う事です。

ですので、ヤハウェがいじわるで食べてはいけない木の実をエデンの園の中央に置き、人間を試したと言うわけではないんです。

これから増え広がるであろう人類を、秩序正しく治めるために、アダムとエバに事前に法律が与えられ、それに従うよう命じられていた、と言う意味です。 

つまり、アダムとエバはそのヤハウェの法律(神の義の基準)に従って、自分たちの子孫を治めたら世界は平和になっていました。

 しかし、創世記3章からを読むと分かる様に、エバは悪魔サタンルシファーに騙され、結局はアダムもエバに従って、ヤハウェが設けた法律に従わない、法律を無視するという罪を犯してしまいます。
それが創世記3章6節の「実を取って食べた」と言う象徴的な表現で書かれている部分です。

 アダムは、ヤハウェの設けた法律に従って生きていくならば、永遠の命が保証されていました。
 しかしその法律を無視するという選択をしたその日以降、完全だった人類は不完全になり、最初の人間夫婦であるアダムとエバから生まれた子孫は、遺伝の法則により、すべて不完全と死を受け継ぐ者、ヤハウェの義の基準と言う的を外す者として生まれてくるようになります。

つまり、アダムがヤハウェの法律を無視する(善悪の知識の木の実を食べる)という選択をしたその時から、人類の悲惨な道のりがスタートしたという事です。

 この部分はとても深いのですが、今回は、ひとまず「善悪の知識の木の実を食べた」と言う象徴的な表現の解釈について、簡単にまとめてみました。

 では、なぜエバは悪魔サタンルシファーに騙され、アダムとエバヤハウェの法律(神の義の基準、物差し)を無視するという道を選んでしまったのか?

また、創世記3節で悪魔サタンルシファーの事が 「蛇」と書かれてある理由、そして2章と3章に出てくる「命の木」は何を表しているのか?

と言った事については、また書けたら書きたいと思います。

*このブログは、KSRG様からの情報(過去動画やブログなど)を参考に、個人的にまとめさせて頂いているものです。
聖書の正しい知識や大きな苦難に関する最新情報は、KSRG様のブログyahweh-ksrg’s blog や、YouTubeチャンネルFrom KSRGをご覧頂けたらと思います。

感謝の対象は?

自然の恵みに感謝??


色とりどりの野菜。


果物。

色、形、大きさ、触感、匂い、味、食感、栄養素、効能、全て違います。

人間が食べるのに丁度良いサイズ、美味しいと感じる味になっています。

意思や感情を持たない自然が、これだけ見事に設計されたものを自然に創造し、又、自然に秩序を保つのでしょうか。

品種改良は出来ても、ヤハウェが与えて下さるものがなければ、人間は何一つ作り出す事は出来ません。


花はどの花をとっても、人間にとって一番見やすい角度に咲いているのだと教えて頂きました。

ヤハウェが人間を愛され、きっと楽しませようとして下さっていた事。
植物や動物といった様々な創造物を見ていると、ヤハウェの思い入れが伝わってきます
(ノ_・。)

ローマの信徒への手紙1章20節(新共同訳聖書)
世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。
従って、彼らには弁解の余地がありません。

 

私たちは、今は直接見たり声を聞くことが出来なくても、ヤハウェが実在するという事を、あらゆる事実を通して確認することができ、ヤハウェに対する真の信仰を培っていくことが出来ます。

一人でも多くの方に気づきがあられることを、心から願っております。

 

主の晩餐

本日 2022年4月15日(金)は「主の晩餐」です。

15日(本日)の日没後から16日の日没までの間のご都合の良い時にいつでも祝えます。

聖書に基づいた 主の晩餐 の祝い方は、 yahweh-ksrg 様がブログで詳しく解説されていますので、よろしければ読まれてみて下さい。

yahweh-ksrg.hatenablog.jp

盛大に行う必要はなく、簡単に行う事が出来ますので、ぜひ皆様も主の晩餐を祝われ、ヤハウェイエス・キリストお二方の愛を改めて心に刻み込んで頂けたらと思います。

《拡散動画》【ヤハウェとイエス・キリストについて知るための助け「ヤハウェとイエス・キリストの愛の深さ」(2)】

【本日のバイブルメッセージ「勝利の歌」《成し遂げられた》】

 

☆二人の証人☆ブログのご紹介

前回、From KSRG 様のブログをご紹介しましたが、Motoaki Channel 様もブログを開設されていますので、改めてFrom KSRG 様と、Motoaki Channel 様のブログのリンクを貼らせて頂きます。

選別・牧者希望者の方は、YouTube動画もですが、ブログも必見だと思います!

少しでもご関心のあられる方は、ぜひお読み頂ければと思います。

From KSRG 様 のブログ

yahweh-ksrg.hatenablog.jp

YouTubeでは言えない様なかなり具体的に突っ込んだ内容のお話もされています。
バイブルで言う“大バビロン”の正体も。

 

Motoaki Channel 様 のブログ

km2kun.hateblo.jp

とても面白いブログです。

 

御二人のブログをぜひ読まれてみて下さい!

 

一人でも多くの方に気づきがあられることを、心から願っております。

 

ブログのご紹介

From KSRG様が開設されたブログのご紹介です。

yahweh-ksrg.hatenablog.jp

定期的に更新しておられる様ですので、少しでもご関心のあられる方は、ぜひお読み頂けたらと思います。

最新の記事では、今年の「主の晩餐」の日付、また、聖書に書かれてある「主の晩餐」の正しい祝い方などについて詳しく説明されています。

yahweh-ksrg.hatenablog.jp

現在の世界情勢を考慮し、早めにお知らせとのことです。

その時までに大きな苦難に入らなければと言う事ですが、ぜひ皆さまも「主の晩餐」を祝われ、ヤハウェイエス・キリスト御二方が、私たち人類を救うために行って下さった事、私たち人類に示して下さったこの上ない愛に、思いを巡らせて頂けたらと思います。(※祈りの対象者はあくまでもヤハウェです。)